催眠術によって、体の自由を奪われたり、辛いものが平気で食べられるようになるといった、感覚を支配されたり、
更には、急に笑い出すといった感情、そして、目の前の人を消したり、あるいは死んでしまった人に出会えたりする幻覚を見せることが可能となります。
なぜ、そのような事が起こりえるのか?
それは、この世界が、現実という幻想でつくられた世界だからなのです。
すべて脳でつくられている
催眠術が深まると、目の前にいる人を消したり、パッと登場させたりできます。
それは催眠術で、脳に相手を認識しないようにしたら消えてしまうからです。
五感で感じることも、脳が「○○に感じる」となれば、見るもの、味、音、におい、皮膚の感覚は脳が思ったとおりの○○になります。
人は、感じたいように感じて、見たいように見てと、自分の思ったとおりのことしか意識に入らないのに、それをあたかも与えられているかのように感じているだけの世界でしかないとしたら…。
要するに「夢」と同じです。
そうなると、夢は自分の記憶によってつくられるものだから、見たいように見ているだけの世の中で自分の知らないことがあることに疑問がわくかもしれません。
でも、夢の中に出てくる街中の人々とか、まったく面識のないはずの人が普通に登場するのは、記憶の枠を飛び越えた様々なネットワークの情報があるからなんですね。
世の中はウタカタ、カゲロウのように思うべし
と、このようにお釈迦様は言われたそうです。
泡沫(うたかた)、陽炎(かげろう)というのは、一瞬で消えてしまう泡のようにはかなく、つかみどころのない、幻のようなものと世界を表しています。
お釈迦様が説いている「悟り」を開くためには、すべての「執着を手放す」ことで開かれますが、それはすべてにおいてこだわらない心の事。
それは、この世界が映画「マトリックス」のような空想、妄想、仮想、夢といった世界だと、認識することで成り立ちます。
といっても、知識として納得したところで、例えば、地震とか災害によって恐ろしい目にあったら、やっぱり恐いとか思ってしまうようだと、悟りを開いたことにはならない訳です。
悟りとは、「彼岸(ひがん)」とも言われていて、「向こう側の岸」という意味で、これは要するに、まったく今とは別の向こう側の世界に行くことを意味します。
現代風に言えば、別次元(神の世界)からこの世界を達観している状態になる感じのようです。
(当然ながら私も悟りを開いたわけではないので聞いた話なのですが…)
その状態に到達するためには、この世界の一切の常識が根本から異なっている、「いわゆる神の世界」へ行くためには、何もかもシャットアウトして、「待つ」しかないのです。
だから、悟りを開くためにひたすら「瞑想」という状態で「それ」がくるのを待っている訳です。
この世の中は罪悪感によってつくられている
この世は、「無」から「有」が生れて、それは「有り」続けていく。
そこに大いなる意志が生れ、その神は一切を咎めないし、罰をも与えない。
一切を与える完璧なる神よって生まれた子である私たちも完璧である。
わずかにずれた波長によって、子に自我が生れ、自我によってこの世界は作られた。
神はこの世界を作ってはいない。
完璧なる子である人は、神と同様に世界を作れるが、それは自我が神の子であることを覆い隠すため存在している。
私たちが神の子として目覚めた時に自我は消えてしまうから、自我はそれを巧妙に覆い隠すこの世界を創造した。
罪悪感で覆われたこの世界において、罪と罰によって「この世は苦しみでしかない」と、釈迦が最初の布教のときに説いた言葉に通じる。
一切を赦し、全てを同じ神の子である相手に与えることで、相手の神性に出会い、この世界(自我)から抜け出すことができる。
それは、「彼岸」であり、
「一切を赦しなさい」「一切を与えなさい」との言葉を体現し、十字架に張り付けられて処刑された聖者は、処刑を行った人たちすべてを赦すことで、
「神は罪をつくってはいない」
ことを証明した。
完璧な神の子に罪など存在するわけがなく、それは「処刑したという罪が存在し得えない」ことを表している。
そのため「その聖者に死が訪れることは無い」からこそ、3日後に生き返るという奇跡をもって
神の世界に「罪と罰」が存在していないことを証明した。
罪悪感はいらない
なぜなら、神は「罪」はつくらないし、完璧である神がすべてを与えた我が子に「罪」など存在する訳がない。
自我によって苦しみでしかないこの世の中で、神が子に望むのは「喜びを楽しみ」である。
なぜなら、自分で作り上げたこの世界は、全てが自分であり、それはすべてに神性が宿り、与えれば与えられ、奪えば奪われる…
喜びと楽しみを与えれば、喜びと楽しみが与えられ、なぜ、この地球にあなたが生まれてきたかは、あなたがこの地球で喜びと楽しみたいと願っていたから。
人生には2つの道がある
とお釈迦様は言っていました。
それは、
「悟りの道」と「宝への道」と。
「悟りの道」とは、瞑想によってひたすら「来る」のを待つか、全てを赦し、与え続けることで見出すか
「宝への道」とは、神(親)を信じて、同じ神の子とともに喜び楽しむことである。
まずは、私と一緒に、催眠術をとおして、喜び楽しんでみませんか?

